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写真論、写真史を考える写真ギャラリーです。是非ご覧ください。

前衛写真

A・スティーグリッツやP・ストランドがアメリカで展開していた「近代写真」の波は、1920年代以降にヨーロッパや日本にも寄せ始める。
その中心がパリ、20世紀前半においても芸術と文化のセンターの位置を保っていた。ヨーロッパ各地から、またアメリカや日本からも、多くのアーティストたちが、花に群がる蜂蜜のようにパリに集まってきていた。
マン・レイ(1890-1976)もその一人である。彼はニューヨークでM・デュシャンやP・ピカソとともに「ニューヨーク・ダダ」の運動を展開したあと、1921年にパリに移る。パリではA・エリュアールらの手によって、シュルレアリズムが花開こうとしていた。最初は自分の作品を撮影するためにはじめた写真だったが、次第にそれが本業になっていく。
パリに引き寄せられ、たどり着いたのはマン・レイだけではない。東欧のハンガリーからはブラッサイ(1899-1984)とアンドレ・ケルテス(1894-1985)がやって来た。
イギリスからはビル・ブラント(1904-83)が、マン・レイのアシスタントとして1929-30年にパリに滞在していた。
20年代パリに足跡を残した日本人写真家、中山岩大(1895-1961)の存在も忘れるわけにいかない。
1919年、ドイツのワイマールに、建築家のW・グロピウスの手で美術工芸学校が設立される。近代デザイン運動に輝かしい1ページを開いたバウハウスである。
バウハウスは写真にも強い関心を抱いていた。その中心となったのは、ハンガリー出身のラズロ・モホリ=ナギ(1895-1945)である。
バウハウスのデザイン運動とともに、1920年のドイツの写真に強い影響を与えたのは、新即物主義である。第一次大戦の精神的荒廃を背景に「事物自身をして語れしめ、事物の背後に身を隠そう」(ルドルフ・ヴァッカー)とする、冷ややかなリアリズムの絵画が登場してくる。
工場や機械の鉄の質感を描写した写真のほかに、植物の一部をクローズアップして幾何学的構成美を表現した写真を収めた、レンゲル=バッチェの『世界は美しい』は、その代表的な写真集である。
ドイツの写真家としては、もうひとりアウグスト・サンダー(1876-1964)の名前を上げておかなければならない。
ドイツの1920~30年代の写真を総称して、「ノイエ・フォトグラフィ(新写真)」と呼ぶことがある。この「ノイエ・フォトグラフィ」を受けとめ、吸収した、独特の写真郡が日本で生まれてくる。1930年代に展開された「新興写真」の運動である。「新興写真」というネーミングは、当時もっとも前衛的な写真雑誌だった『フォトタイムス』の編集主幹木村専一(1890-1938)を中心に、堀野正雄(1907-)、渡辺義雄(1907-2000)らによって結成された新興写真研究会に由来するとされる。1932年には、堀野正雄が新即物主義手法で鉄骨やクレーンの構成美を撮影した写真集『カメラ・眼×鉄・構成』を刊行し、野島康三、中山岩太、木村伊兵衛(1901-74)を同人に月刊写真雑誌『光画』が創刊されるなど、「新興写真」は最初のピークを迎える。関西ではこの頃、浪華写真倶楽部、丹平写真倶楽部、芦屋カメラクラブという三つのアマチュア写真家クラブの会員を中心に、安井仲治(1903-42)、小石清(1908-58)、花和銀吾(1894-1957)といった写真家が活躍した。
 しかし戦時体制の進行とともに、モダニズム思潮が圧迫されるようになり、「新興写真」も次第に退潮に向かう。1937~39年頃には、東京、名古屋、大阪、福岡などで、シュルリアリズムの刺激を受けた「前衛写真」が流行するが、完全に根づくことなしに1940年以降には終息してしまった。最近になって、この時代の写真の見直しがはじまり、同時代のヨーロッパとも共通する多彩な表現の水脈が掘り起こされつつある。