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フォトジャーナリズム

「『ライフ』はヘンリー・ルース(タイム社の社主)が作ったのではなく、ヒトラーが作ったのだ」という有名な言葉がある。『ライフ』に代表されるアメリカのフォト・ジャーナリズムが、ヒトラーに追い出されたユダヤ人カメラマン、編集者によって支えられていた背景を、皮肉に言い表した言葉である。確かに報道写真(ルポルタージュ・フォト)を生産し、流通させる、現代のフォト・ジャーナリズムの原型が出来上がったのは、1920年代のドイツだった。
ドイツでは、20年代後半に二百万部を超える発行部数を誇っていた『ベルリナー・イルストリールテ・ツァイトゥング』をはじめとして、『ミュンへナー・イルストリールテ・プレッセ』『ディ・ダーメ』といった、写真やイラストをふんだんに使ったグラフ雑誌が人気を集めていた。そして、これら雑誌を舞台に、エーリッヒ・ザラモン(1886-1944)、マーチン・ムンカチ(1896-1963)、フェリックス・H・マン(1893-1985)、アルフレッド・アイゼンシュタット(1898-)らがいきいきとしたルポルタージュ・フォトを発表していた。
しかし、1933年にナチスが政権を取り、出版社や通信社に属するユダヤ人ジャーナリストを排斥しはじめると、多くの優秀な編集者やカメラマンが国外に逃げる『ミュンへナー・イルストリールテ・プレッセ』の編集次長だったS・ローランドは、ロンドンに渡って1938年『ピクチャー・ポスト』を創刊する。イギリスにはF・H・マンやフォト・モンタージュを使ってナチスを批判したジョン・ハートフィールド(1891-1968)も逃れた。E・ザラモンはハーグに移るが、最後はポーランドのユダヤ人収容所で悲劇的な死を迎えた。
 アメリカには、M・ムンカチ、A・アイゼンシュタット、『ベルリナー・イルストリールテ・ツァイトゥング』の編集長だったクルト・コルフらが亡命した。タイム社のヘンリー・ルースの依頼によって、新しい大衆向け週間グラフ雑誌の計画を練り上げたのは、コルフだった。しかし彼は新雑誌の名前が決まる前にタイム社を去る。1936年11月23日、のちに世界最大のグラフ雑誌に成長する『ライフ』が創刊された。創刊の総部数は46万6千部、創刊時のスタッフ・カメラマンは、表紙のフォード・ベック・ダムの写真を撮影したマーガレット・バーク=ホワイト(1904-71)をはじめ、A・アイゼンシュタット、T・マッカヴォイ、C・マイダンス、P・スタックポールだった。
『ライフ』は、世界中のあらゆる出来事を視覚的に翻訳し、わかりやすく伝達することを目標とした。それは「見る」快楽に取り付かれてしまった大衆の欲望に応えることであった。以後「自身で見て、そしてこれを人に示す」のが、フォト・ジャーナリズムの最高の目標になった。
『ライフ』は一年で百万部を超え、二年目には二百万部を超える。以後部数は伸び続け、1967年には国際版を含めて七百八十万部に達した。この世界最大のグラフ雑誌を支えたのは、優秀なスタッフと厖大な資金を注ぎ込んだ、綿密な取材だった。
こうして、『ライフ』とそのライバル誌としての1937年に創刊された『ルック』を中心に、フォト・ジャーナリズムは1950~60年代に黄金期を迎えることになる。フォト・ジャーナリズムの黄金期を支えた写真家集団がマグナムであった。マグナムはロバート・キャパ(1913-54)とアンリ・カルティエ=ブレッソン(1908-)とデビッド・シーモア(1911-56)、・キャパの弟のコーネル・キャパ(1918-)、スイス出身のヴェルナー・ビショフ(1916-54)、フランスのマルク・リブー(1923-)アメリカのエリオット・アーウィット(1928-)バーク・アズル(1938-)マリー・エレン・マーク(1942-)、イギリスのフィリップ・ジョーンズ・グリフィス(1936-)、チェコスロバキアのヨセフ・クーデルガ(1938-)、そして日本の浜谷浩(1915-1999)らの国際的な会員、寄稿写真家を抱え、戦後のフォト・ジャーナリズムの一大拠点となった。