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アメリカドキュメント

1929年10月24日、「暗黒の木曜日」と呼ばれる株価の大暴落以降、アメリカ経済は深刻な大不況におちいる。大統領F・D・ルーズベルトは「ニューディール」政策をとって全面的な社会改革、救済事業を展開しようとした。
 その一環として、農民や季節労働者に低利の融資を行い、土地改良計画の推進を目的として、1935年、再殖民局(1937年に農業安定局[FSA]と改称)が設立された。その歴史資料部の責任者であったコロンビア大学経済学部教授のR・E・ストライカーは、南西部の農業地帯の窮状を、写真を使って調査することを思いつく。そのため写真家が雇われ、チームが組織された。最初に雇われたのはアーサー・ロスタイン(1915-)、カール・マイダンス(1907-)、ウォーカー・エバンス(1903-75)、ベン・シャーン(1898-1969)、ドロシア・ラング(1895-1965)の五人である。
彼のFSA時代の写真は、社会的、公的な記録というより、私的なドキュメントといった性格が強い。とはいえ、被写体を気ままに撮影しているわけではなく、農民の家の室内、街角の看板、農民たちの疲れが滲み出ているような表情などを、ストレートに、対象に静かに寄り添うように写しとっている。事物や人間たちのイメージの断片を採集することで、1920年代のアメリカ社会の見取り図を描き出そうとしているように見える。その意味ででは、「芸術家のための資料」と歴史資料との違いはあるにしても、エバンスの写真はE・アジェのパリの写真と共通の質を備えている。
W・エバンスの方向性をより深化させて、1950年代のアメリカ社会を記録したのは、スイス、チューリヒ生まれのロバート・フランク(1924-)である。
フランクの写真集『アメリカ人』の出現は、写真というメディアが、自分と世界の関わりを、あくまでプライベートな肉声で語り得るところまで成熟したことを示していた。フランクの写真は、?美?を目指すものでも、社会的なメッセージを伝達するためのものでもなく、彼自身の個人的なまなざしを、あたかも散文詩を綴るように織り上げたものだった。『アメリカ人』は、同じような態度で世界に向き合おうとした若い写真家たちに大きな勇気を与える。たとえばウィリアム・クライン(1928-)の『ニューヨーク』やエド・ヴァン・デル・エルスケン(1925-90)の『レフトバンクの恋』は、フランクとはずいぶん肌合いが違うが、やはりプライベートなまなざしに徹底してこだわった写真集であった。
1966年12月、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウス(コダックが設立した写真博物館)のキュレーター、ネーサン・ライアンズの企画で「コンテンポラリー・フォトグラファーズ、社会的風景に向かって」と題するグループ展が開催された。選ばれたのはブルース・デヴィッドソン(1933-)、リー・フリードランダー(1934-)、ダニー・ライアン(1942-)、デュアン・マイケルス(1932-)、ゲリー・ウィノグランドフリードランダー(1928-84)の五人の写真家である。
N・ライアンは、同時に発行された写真集の序文で、古典的な風景の解釈(たとえばE・ウエストン、A・アダムスのような)が成り立たなくなってきたと述べる。都市とその周辺に広がる風景は、人工物と自然が無秩序に交じり合ったものである。いわば「社会的風景」とでもいうべきそんな眺めをとらえるには、「人間と人間、そして人間と自然の結びつきという相互作用」を意識する必要がある。ライアンズは、その具体的な方法として、スナップショットの復権を主張するのである。
もう一人、アメリカン・ドキュメントの流れを転回させる役目を果たした写真家として、1967年の「ニュー・ドキュウメンツ」展(ニューヨーク近代美術館)で、フリードランダー、ウィノグランドとともに作品が展示された、ダイアン・アーバス(1923-71)の名前をあげなければならないだろう。