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ニューカラーとニュー・トポグラフィクス

1970年代後半になると、技術的な問題もほぼ解消され、カラー写真を表現の手段として利用していこうとする流れが定着していくようになる。そのきっかけになったのは、1976年にニューヨーク近代美術館で開催されたウィリアム・エグルストン(1937-)の個展である。J・シャーカフスキーが、展覧会カタログの序文で強調しているように、モノクロームの印画に対して色を特別に問題にするのではなく、「色がついて存在している世界それ自体」を、写真家の視覚的な経験に即してストレートに描写していこうとするスタイルが生まれてきたのだ。
エグルストンだけでなく、70年代後半には、多くの写真家たちがカラー写真を使い始める。とくにアメリカの場合、80年代にはカラーとモノクロームの比率は、ほぼ逆転したと見てよいだろう。『ザ・ニュー・カラー・フォトグラフィ』の続編として、1984年に写真集『ニュー・カラー・ワーク』が、1987年に『アメリカン・インデペンデンツ』が、やはりS・オークレアの編集で刊行された。この間に「ニュー・カラー」というカテゴリーは、やや曖昧な要素を含みながらも、ほぼ定着したといえるだろう。日本でも小林のりお(1951-)、伊奈英次(1957-)山根敏郎(1953-)畠山直哉(1958-)など、カラー写真で都市、あるいはその郊外の風景を撮影する写真家が登場してきている。「ニュー・カラー」の写真とともに、1970年代後半、写真家たちの撮影のスタイルに、無視できない影響をあたえたのは「ニュー・トポグラフィックス」である。名称の由来となったのは、ウィリアム・ジェンキンスが1976年にジョージ・イーストマン・ハウスで企画したグループ展「ニュー・トポグラフィックス」。
「トポグラフィックス」とは「地誌、地勢学」といった意味である。自然破壊によって変質していくアメリカの風景を、あたかも地誌学の調査のための測量のように、感情移入を排したニュートラル(中立)な視線で撮影していくのが、これらの写真家たちの基本スタイルである。
それはいうまでもなく、60年代の「社会的風景」へのアプローチをより深化させたものであり、さらに歴史をさかのぼれば、19世紀のT・H・オサリバンやW・H・ジャクソンの西部探検の記録写真までゆきつくであろう。「ニュー・カラー」にしても「ニュー・トポグラフィックス」にしても、アメリカン・ドキュメントの系譜を発展的に受け継いだものと見なすことができる。
しかし、70年代以降の写真家たちの作品には、希望より絶望が、憧れより幻滅が広がり始めているように思う。J・ファールの危険な美しさをたたえた原子力発電所の遠景、L・ボルツのゴミ捨て場のような都市郊外の光景、あるいはやはり人工的な施設や人災によって変貌していく南カリフォルニアの砂漠地帯を撮影した、リチャード・ミズラック(1949-)の『デザート・カントス』(1987)などには、?黙示録の風景?とでも呼ぶべき眺めが現れてきている。日本の雑賀雄二(1951-)の『軍艦島―捨てられた島の風景』(1986)や宮本隆司の『建築の黙示録』(1988)にも見られる、静まりかえった沈黙の風景は、もしかすると写真家たちの鋭敏な感覚によってとらえられた、近未来の眺めなのかもしれない。