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写真論、写真史を考える写真ギャラリーです。是非ご覧ください。

写真の社会的機能の回復にむけて

20世紀の前半は、写真は「ライフ」に代表されるようなグラフ・ジャーナリズムの核心としてロバート・キャパやウィージーのような写真家を擁し、世界の「真実」を人々に伝える重要メディアだったし人々もそれを疑わなかった。だが、戦後の冷戦の過程でジャーナリズムの中立神話が崩壊するなかで写真・映像はイデオロギーに左右される危ういメディアという認識が多くの人々に知られるようになった。
 写真というのは現実のきわめて正確なコピーであるが、どう見るか、読むかは見る人の文化、知識、趣味などによってまったく異なるものなのだ。こうして20世紀後半はパブリックな公論の次元での写真の役割よりも、個人の呟きの声をとらえる装置として写真は適合的だという心性が隆盛を得ていった。その一つの「良き例」が荒木経惟だったし森山大道だった。
 かつて1968年に森山や中平卓馬らが唱えた「まず確からしさの世界をすてろ」というメッセージは「確からしさ」=公論ではなく「世界」を捨てるという誤った総括に基づいて21世紀に引き継がれてしまった。捨て去られた「世界」を再構築するために「世界的歴史記憶回復プロジェクト」を始動させたい。
絵画の世界で「時代の目撃者」は18世紀、スペインのゴヤである。そこには美であるよりはむしろ醜であるものが描かれている。しかしそれは悪夢や悪魔についてのイデーではなくその時代で日常の中の事件であり正視に堪えないものであろうと作家がその眼で見たものであった。写真は人や時の関係を写すものである。視覚の驚きは一回性であり、視覚的にはそれはすぐさま技法と化し、美化が始まる。
 「ライフ」型のグラフ・ジャーナリズムは組写真によってストーリーをつくり、レイアウトとキャプションによってそれを構成するという報道写真の典型的なひとつのスタイルも共示の文学的コードであり、それが写真は世界の共通言語などという他愛ない俗説と結び合うとき、言葉がイメージにある道徳や倫理を課すことで、写真を読ませることになる。そこではたいてい写真を見ているのではなく与えられたストーリーを読まされているに過ぎない。
 肉眼と違う光学原理に基づく写真だけに可能なこと、飛行写真、マイブリッジの連続写真、マレイのクロノフォトグラフィー、モホリ・ナギのフォトグラム、マン・レイのソラリゼーション、ハート・フィールドのフォトモンタージュ等。写真が眼で見た現実とは違う写真的見方を教えてくれることを認識して利用したのは印象派の画家であった。
 写真のボケやブレによる運動表現、スナップ・ショットによる古典的な構図とは違う偶然の構図の中に写真による新鮮な視覚を取り入れ、世界は自分が考えているよりはるかに豊かであること、そして知覚世界と物理世界の違いに気づいた。
 そして写真「発見の美学」が写真によってうち立てられた。事物は写真になると、どんなに違って見えるかを知るための道具としての写真。それが現代写真の底流である。
 写真は、私たちの身体に似ている。身体は個人にとって大変身近な存在であり、「私」の領域に属しているにも関わらず想像力や精神の及ばない領域を形成しており、しかし「私」が毎日の生活の場で他者と分かち合い共有しているもう一人の「私」である。そして写真は、自分が意図したものとは別のものを他人がそこに見てしまう存在であり、「私」の表現であり私の知らないもう一人の「私」を見せてくれる。未知だった「私」を私が共有していくように私たちは他者の体験、光の体験を共有できる入り口にいま立っている。そのことを通じて私たちは世界を新しく知りなおすことさえできるだろう。そして、世界の知り方が変わったとき、世界が変わったと私たちは言うのである。