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写真論、写真史を考える写真ギャラリーです。是非ご覧ください。

写真の修辞学=身体論

-肉眼と知覚世界の見ることの不確かさ

人間は、ある社会のなかで共有されている言葉によって世界を読む。逆にいえば、その言葉の体系が生み出せる結界=擬制としての世界を共有することで、ある社会的存在となる。
 私たちは普通、見たものを言葉を通じてひとつの世界に再構築する。その再構築の過程で、眼球を通じて網膜に映ったすべてのなかから多くのものが、切捨てられる。<見えたもの=存在するもの>のほんの一部をもって、私たちは大脳の中に結界=知覚世界という擬制をつくりだして<見た>というのであり、それをもって<わかった>ことのしているのである。
 自分が<見た>と思っている世界と現実に<見えた=存在するものの世界>の差、それは、言語によって再構築された世界と、言語化されない混沌の世界の差であり、知覚世界と物理世界の差ともいえる。
 イギリスの神経科医W・ラッセル・ブレインは、私たちに色・音・匂いなどの経験を起こさせる大脳状態の構造は、それらの感覚性質を引き起こしている対象の物理的特徴と類似性をもたないとして、物理対象は感覚データを伝達することはないと述べている。単細胞生物の持つ物理的刺激に対する直接反応能力を、人間の大脳は眼のような特殊感覚器官へ譲り渡しており、その特殊感覚器官は物理的刺激をではなく、生理学的神経興奮を大脳に伝達することで反応した。
こうして大脳自ら外部世界の象徴的表象を供給する感覚データを生み出す。
写真の発明された19世紀の前世紀は『服装の時代』とよばれた。これに比べ19世紀は『金の時代』であった。中世は、いってみれば聖と俗のせめぎあう時代であり、12、13世紀以降全ヨーロッパ的に展開していく貨幣経済とキリスト教が拮抗する時代であった。
ジョン・シャーカフスキーの言うように「写真の特質は、その継ぎ目のない一貫して連続した描写」にあり「ある定められた時間内のある定められた円錐形の空間を見せてくれる完璧な道具」なのである。
しかし、物理的世界の相似物としての写真の確からしさけっして自律的なものではない。共示のコードを持たない以上、示唆はできても定義することはできないし、認識の具であっても説明の具ではない。写真の意味は直喩ではなく、隠喩であるから、本質的には時代と地域に規定された神話的意識に媒介されて<読者性>のなかにゆだねられざるをえない。
作品は集合的な意識の部分的主題化であり、作品に対する全体性は読者に読まれることによって初めて生み出される。ここから、写真のアノニマス性が引き出される。