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写真論、写真史を考える写真ギャラリーです。是非ご覧ください。

「写真」が写真になった日々

-あるいはエディトリアル=視覚的興奮の成立-1965年前後

"ザ・ファミリー・オブ・マン"展(1955年ニューヨーク近代美術館、1956年日本)は構成と見せ方によってスナップ・ショットが大きな概念のもとで別のものになるという編集展示方式を示して国際的な成功を修めたにもかかわらずその後の写真の方向にほとんど影響を与えなかった。それは「ライフ」型のフォト・ジャーナリズムが有効性を発揮しえた最大で最後の写真展だった。
 "生命・愛情・平和"というアメリカン・ヒューマニズムの幻想性そのものが戦後の朝鮮戦争・インドシナ戦争、そして1956年のハンガリー・スエズ動乱と続く戦火の中で信頼するにたらぬ理念となったし、ハンガリー動乱の際“暴徒を鎮圧するソ連軍”と説明されたライフの一枚の写真が実は“ソ連軍に抗議するハンガリー市民”であったというフォトジャーナリズムの客観・中立神話の崩壊=写真の虚構性への認識がすでにこの時期に存在してもいた。写真によってストーリーやドラマを語ろうとすると、ドラマを支える大きな抽象概念が必要になる。そこでは写真はストーリーやドラマの下僕であり、写真はそのドラマに反対でも写真的レトリックのうちに枠づけられていた。写真のこの枠から解放する動きは映画における“ヌーベル・ヴァーク”と同時期に始まっている。
 それはウイリアム・クラインの「ニューヨーク」(1957年)であり、ロバート・フランクの「アメリカン人」(1959年)である。
 彼らがどこまでも世界に対する個人的まなざしを基礎にし社会に対して何かを訴えたり提示したりする姿勢見せなかった。彼らの写真は断片的であり、ストーリーを構成するにはあまりにも直感的であった。
 彼らはスティーグリッからウエストンにいたる過程で定まったとされるライティング、構図、被写体の明瞭さ、焦点の正確さ、仕上がりの完璧さという写真的レトリック(アメリカンマスター)をまったく無視していた。この点がこれまでの写真家と根本的に違うところであり、既存の写真家たちは彼らを自分たちが共有してきた写真的レトリックそのものへの挑戦者だとみなした。
 クラインやフランクは写真をストーリーの下僕とは考えていなかったし、むしろドラマ性から解放しさえした。彼らがしようとしたことは、個人の断片的で直感的な体験に基づいた写真的見方を確立することだった。つまりヒューマニズムや平和といった総合的で飽括的な大理想に基づいた写真の破綻が彼らを生み出したのだ。
 日本でも、クラインやフランクの動きとほぼ同時に“新しい写真”の波はうねりだした。1958年7月号の「中央公論」の東松照明の「課長さん」について、名取洋之助は「課長のルポルタージュというより、彼の課長観の表明なのだ」と述べて“私は対象をこう見た”という個人的まなざしの発揚を記している。さらに「『課長さん』からイメージを残しストーリーを抜いたら『占領』が生まれた」とも述べている。
 技法の問題を写真の質と混同してはいけないし、写真の質を文明論に一般化してもいけないがなおこの時代は、それを許してしまう限界もあった。
 写真はドラマの下僕であることをやめて、こんどは個の美意識、趣味の下僕となった。
何かのためでなく、見ることのために見る、自分のイメージのために写真を撮るのではなく、写真がただ写真である。
 この写真的見方を内実とするまなざしを写真として定義したのはコマーシャルの写真家たちであった。
 既成の編集のありかたは、なぜ、何のためという時代性から説き始め、テーマ性を導き、意味を論理化(武装)する中で進められた。つまり、頭で考え出された意味のなぞらえとして写真が隷属させられた。
 エディトリアルにおいては視覚的興奮、写真的見方そのものに写真がある。テーマはあってもなくてもどちらでもいい。
 問題は「何を撮るか」ではなく「何なら撮れるか」だった。
高梨豊の「東京人」から森山大道へいたって、もはや「何を撮るか」など消し飛んで「何を撮ろうがかまわない。残っているのは“私”しかない。写真家は一瞬一瞬にだけ私情をはさむことのできる存在だ。東松照明らがまだ残していたテーマ主義的残存を捨て去ってしまった時、残ったものは“私はこう見た”という写真的見方以外の何者でもなかった。そして「事物は写真になるとどんなに違って見えるか」を示すものとして写真を考えるという現代写真の流れになっていく。