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写真論、写真史を考える写真ギャラリーです。是非ご覧ください。

「写真の眼」が確立した日々

-1970年前後

1960年代末、社会的価値の混乱の時代は写真にとってもまた新しいものの見方が既成のものを根底から揺るがす激しいせめぎあいの重要なしかも苦しい日々であった。
 とりわけ日大・東大闘争をはじめ全国的な全共闘・反戦の総叛乱の頂点にあたる1968年は「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」の紹介にはじまるいわゆる“コンポラ”の頂点であり、多木浩二、岡田隆彦、高梨豊、中平卓馬、森山大道(二号から参加)による「PROVOKE」(英語で「挑発する」の意)の創刊さらにJPSによる「写真百年・日本による写真表現の歴史」展の開催といったその後の写真の流れに大きな影響を与えることになる写真史のメルクマールが集中している。
 1960年代を通じて写真を社会的な伝達の手段としてストーリーやドラマを語るための<意味>の書き割りから解放し、写真が持っている独自の視覚を追求してきたヌーベル・ヴァークの流れがここで加速され位相を変えていく。視覚的興奮の拡大という方向をおもにエディトリアルな領域に展開してきた主流をなすのは、立木義浩、篠山紀信、横須賀功光、高梨豊といったコマーシャルを中心とする写真家たちであった。
 メルロ=ポンティのいうように「人間は<見るもの>であると同時に<見られるもの>でもある」(『眼と精神』必要なのは<見る-見られる>という交換を持った構造的な眼なのであり、それが<写真の眼>なのだ。“私的な眼”ではなくて“写真の眼”こそが写真の独自の生命・息づきを支えているのだ。篠山、荒木らは意識的に“見られることによって見る”ことを追求している。被写体を写真の中に独自のやり方で引っ張り出すこと。また森山の写真の目は気配写真として追求される。
 写真的認識眼とは何か。
主体-被写体のどちらの軸にも眼を位置づけず、写真をたんに写真家の創造行為でも被写体のためでもなく写真として考究し続ける眼のことである。ドキュメントや告発を伝達するための写真でも芸術写真でもない“写真としての写真”を見極める眼である。すなわち写真というメディアでは見出すことが創り出すことの代わりをするという写真によって打ち立てられた「“発見”の美学」を立脚点とすることである。被写体はシャッターが切られるたびに新しく発見され、写真によって私たちは人間の動作の表現が無限に豊かで複雑なものなのだということを知ることができる。そのことはとりもなおさず自己認識の世界が拡大することだ。既成の言葉と概念とパターンで作り上げてきたイメージとしての人間ではなく現に生きている人間という生きもののしでかすとんでもないありさまや肉眼では正視できないむごたらしさや捕らえられない驚異が現実性を持って立ちあらわれてくるのだ。
 肉眼で見たと思っていることで取捨選択してしまったもの、つまり“見た”ものと“見えたもの”の差が肉眼と写真の基本的な違いであり“見た”もの以上につねに“見えていた”こと、見たと思い込んでいるものがいかに不確かなものであるかということを写真は私たちにつきつけてくる。
 眼球から入ったものは脳髄のどこかにストックされている。
 写真のこのように<見る-見られる>構造としてある。だから写真そのものがメディアなのでありしかも写真は現実のアナロゴン(相似形)でありコードレスなメッセージであるからこそ見る側、見られる側のどちらでもない位相に立ちうるのだ。“わからない写真”が出現したのではない。写真がわかっていなかったのだ。だから「確からしさ」を捨てるのではなく、バカ者どもは世界を捨て去ってしまった。残った確かなものは「私」だけとなった。
 森山大道、深瀬昌久、荒木経惟、中平卓馬、北井一夫をひっくるめて“主観的ドキュメンタリスト”という項でくくった無理な呼び方もあった。何が新しいのかといえば<写真の眼>によるドキュメントであるからだ。
 写真はいずれ時の中で記録として残っていくのであり、そのとき写真は誰が撮ったかではなく、写っているものによって残っていくのだ。ということとしてアノニマスを語っていた。またもう一方で、写真はコードを持たないメッセージである以上、その読みは、見る人間によって異なり、したがって一枚の写真の意味は、撮った写真家の意図をはるかに超えて無数に生まれるという意味でもアノニマスなのである。
 1972年に出された写真集に森山が『写真よさようなら』と題したのは、かように重々しい既成の肉眼から規定される「写真」から心底グッド・バイしたかったからだろう。森山は、写真から写真家を消去するという<反表現>の表現へ旅立つのだ。
 日本の"コンポラ"はどうだったか。
 アメリカではコンポラは、写真が<写真の眼>を持って自立する滑走(ロバート・フランク、ウィリアム・クラインが起点)から離陸への飛翔としてとらえられるのだが、日本ではコンポラとはブレボケまでも含み込む、わけのわからない素人っぽい写真といった感じで受け取られ霧消してしまったように思える。むろん、牛腸茂雄、秋山亮二、田村彰英、須田一政、土田ヒロミらの写真をあげることはできる。が、印象として、コンポラの雰囲気はコマーシャルの写真家たちの方向として花咲いたという感じが強い。
 浅井慎平がその代表格だろう。1966年のビートルズ来日のライブ・フォトともいうべき「東京ビートルズ」をスタートとする浅井の写真は、音楽の世界で何をやっても自由なんだということを体現したビートルズそのままに、日本的湿度を持たない乾いた"軽さ"を持っていた。70年に出版された『ストリート・フォトグラフズ』は、まさしくコンポラを意識的に模倣した装丁をとっていて、もとの本が持っていた滑走から離陸へのある種の軽さを共有していた。このコマーシャル写真家の中のコンポラ的流れの中に操上和美、小川隆之、有田泰而らをあげることができる。
 コマーシャルの写真家たちのフットワークの軽さを思い浮かべるとすぐに連想される写真家が荒木経惟である。
 荒木は「なんでもない、いつもの日常からドラマを発見した」"さっちん"から『ゼロックス写真帳』を経て70年代の「センチメンタルな旅」へいたる過程で、けっして軽くない泥臭い対象を軽々しく装いながら選び撮ってきた。荒木は写真は複写である、被写体の表現しているものをただ写し撮るのだと宣言してしまうことで、写真家という存在を端から空っぽの軽い存在にしてしまった。むろん、これは方法論なのであって、この虚構を用意することで被写体はコロリと荒木に見すかされてしまうことになる。荒木の写真はどれもごく日常的にころがっているものでできあがっている。すべてモノ化することが荒木の写真の本質をなしている。すべて風景になってしまうのだ。
 1960年代末から70年代はじめのこうした<写真の眼>の動きを両手でかき集めて最大限に吸収したところから70年代の代表作が生まれている。
 東松照明の『太陽の鉛筆』と篠山紀信の『晴れた日』である。どちらも1975年に出版されている。こうして日本の現代写真は、一度写真の原点に回帰することでようやくスタート台を築いたのである。
 写真が写真である時代がはじまったのである。