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写真論、写真史を考える写真ギャラリーです。是非ご覧ください。

「写真論」序説

-「外」の表現

私たちは、普段「見る」ということは「眼」という感覚器官に関するものだと思っているだろう。ところが「見る」ということは、「脳」に関係するものだ。「見る」という行為を専門にしてきたのは、古代より「絵描き」「画家」「彫刻家」とよばれる「手」を使う人々だった。
 古代奴隷制の時代には「手」の仕事は卑しいものとされ奴隷の仕事・労働と考えられてきた。労働とは凝り返される作業のことで古代から長く下位の卑しいものと考えられたが、カール・マルクスの労働価値説によって労働がすべて社会の価値の源であることが明らかになった。そして近代になってようやく芸術家が王侯貴族のお抱えとしてでなく、一般市民を顧客とする自立した芸術家となった。そして近代画家の誕生を文字どおり、身をもって体現したスペインの画家ゴヤは、一方で宮廷画家であり、また、ナポレオンのスペイン侵略に対してエッチングでドキュメンタルな絵を描き続けた自立した画家でもあった。人間の成し得る行為には、限界などない。こいつはいくらでも残虐になれる。彼はイデオロギーにも思想にも曇らされない眼で見たことを描いた。祖国を超え、人間という生命体がはたしていかなる存在なのか、そのあさましい姿こそ彼の描こうとしたことであった。
 「私が見た」の問題は次にある。
何を見たのか、何のために、さらに言えば、どのように。
「見た」の次に来るこれらの事柄を欠いた「見た」は所詮「視た」へは行き着けない。「見る」者は「視る」者に、「見者」=「賢者」になりたいものだ。そのためには、まず何より「見る」を「眼」から「脳」に転籍し「視る」ことに意識的になる必要がある。(意欲的ではない)
写真が「視る」へ転化するためには写真を「手」の機能である「撮る」の領域から解放し「眼」の機能であり「脳」の機能としての「思考」の領域に取り戻さなければならない。その軸は明らかに写真自体を「視る」作業、写真家の作業としては、暗室、プリントなどの写真セレクトの時間における「視る」行為の復権ではないだろうか。写真という行為において、じつは大切なのは、光のなかで「撮る」ことより、はるかに暗室のうちで「視る」ことのほうが本質的だ。そこでは、一種の逆転が起きる。「視る」ことがじつは、暗室作業のうちでの定着とか水洗いとかの「触れる」作業をともなうという意味での…。写真家は、光のなかではなく、暗室において、具体的に写真の触覚性を経験することになるのである。
写真は本来「視る」ものだった。19世紀に写真が発明されて以降、「視る」ことの専門家は写真家となった。けっして「撮る」専門家だったのではない。その証拠に写真は現場にいなければ撮れない、という決定的拘束性を持っているから、最終的に現場に居合わせたかどうか、が決定的だ、と一般的に思われてきた。幸運な現場に居合わせた者が写真の「撮る」勝者となる、と、そうではなく、「視る」ことで勝者となることこそ、写真の「見者」の道だろう。森山大道の道である。
現代は[visual]の時代と言われている。しかしそう言われるときは、本当はその時代ではない。つまり「見る」という「眼」の時代なのだ。「視る」という「思考」の時代ではない。写真は反射光の映像であり、どこまでも「外」の姿しか写さない。だから写真は20世紀文学のひとつの代表ともいえるハードボイルドに似ている。外面の一様さから中身が判定できないという外見と中身の一致の神話が崩れたことがハードボイルド誕生の裡に隠れている。
 写真は19世紀前半に発明されたが、当初はリアリズムとして受け入れられていたものの、ただちに起こったことはむしろ反リアリズムというべき「心霊写真」の流行だった。むろん、それは女性のヌード写真の流行と並走していたがやがて19世紀末にはいわゆるピクトリアリズム=芸術写真へと引き継がれた。
 ハードボイルドという感覚は写真でいえば第一次世界大戦後のヒューマニズムの根底的不振をバックに生まれてくる。ドイツの新即物主義、アメリカのf64のエドワード・ウェストン、アンセル・アダムス、第二次世界大戦のロバート・キャパ、ウィージーであろう。
 アンセル・アダムス、ウェストンらのf64グループは徹底した外面描写を続けながら、そのプリント表現において「表現」を確保し続ける姿勢が生まれてきた。ここには写真の特性を捨てることを断然拒否しながら、その特性の上でなお「表現」に固執する姿勢がある。しかし彼らの写真を非イデオロギー的にもっぱらファインプリントというプリント技術に押しとどめてしまう流れが写真界にはまだ根強くある。アダムスもウェストンもけっして非イデオロギィー的写真家ではなかった。彼らは、彼らなりにその生きた時代の中で、時代と関わり、時代を生きたのである。写真をはじめる人に私が最初に見てほしいのはf64グループの写真である。彼らの写真の中に、写真的要素をじっくり見ること、そこには神秘的なものが降臨したかのような神々しいものが感じられるだろう。それは、彼らがプリントという写真独自の特性に表現のすべてをかけていることからもたらされている。「視る」という写真の本質が問われることを誰よりも彼らが知っていた。そういう意味で、写真は写真家がプリントしたオリジナルプリントが本物だ。むろんのことその複製である印刷物は複写として二次的となる。しかし大衆が見る可能性からいえば複製としての印刷物もプリントにつぐ重要性を持っており印刷のクォリティは大切なのだ。
「撮る」ことより「視る」ことが大事だということは結局のところ、いかに「撮る」かより、いかに「発表するか」が大事だということであり、そこに写真の力点が置かれて写真が語られるべきだ、ということである。